プロフィール

逆境に負けたくない理由はここにある。離婚からの2年半の裁判。子供と一緒に暮らせない。胸を引き裂かれるような痛み。

憎しみ、怒り、憤り、嫉妬いろんな感情を同時に感じた。そして荒れた。

しかしまた立ち上がるんだ!そう決意してこのブログをはじめた。負けたくない。。。

目次

順風満帆な幼少期

私はとある離島で生まれました。末っ子長男ということもあり、幼い頃から猫かわいがりされた。

姉から『あんたは甘やかされてたからね』と今でも小言を言われる。

特に祖父は、すごくやさしかった。口数はそんなに多い方ではない。しかし私は祖父のことが大好きだった。柔らかい表情に包まれるような安心感があった。

両親は共働きだったため、幼稚園が終わるといつも祖父と病院や歯医者、散髪、おもちゃ屋に通った。

わんぱくな小学時代

小学生になると習い事に夢中になった。剣道とソフトボールだ。負けん気は強かったみたいで、どちらも県で良いところまでいいっていた。

しかし学校はというと年中のとき位に新卒の先生が担任になって、完全になめきった態度とっていた。

あの女性で新卒の先生には、本当に申し訳ないことをしたと思っている。しかし高学年になると勉強をしはじめた。

なぜかというと担任の先生が本当に教育熱心だったからだ。

放課後も私たちの勉強をみてくれて、いつも帰る時間は19時前後になっていた。

学力もぐんぐん伸びていった。このとき私には希望があった。

それは中学で離島をはなれ、本土の私立中学に行くことだった。

しかし、この夢は叶わなかった。両親の許可がでなかったのだ。まだ中学生で一人暮らしは早いと言うことだった。

スポーツに明け暮れた中学時代

中学時代は部活と勉強を必死でやった。

部活に関しては元々スポーツが好きだったこともあって、自然と結果や成果が目にみえてどんどん伸びていたのだ。一方、勉強の方はというと部活の疲れでおろそかになっていた。

そうこうしているとすぐに卒業の時期になった。私が志望したのは、本土の公立高校。

文武両道の私の県では少し名の通った高校。今回は親も許してくれた。それは父が賛成してくれたからだ。

実は私と父は野球が好きだった。そして、いこうとしている高校は野球強豪校。私と父は夢を見た。甲子園にいくんだと。

しかし母は、反対した。野球でご飯を食べれるのは一握りの選ばれた人間。もし成功してもセカンドキャリアはどうするの?

ごもっともだった。現在、ニュースでもプロスポーツ選手のセカンドキャリアは問題になっている。

そこで野球も強く学力も高い高校ということで、母を説得して無事高校入学となった。

素晴らしきかな高校時代

高校生になると、もうやりたい放題だった。部活も夏にはもうやめていた。父に報告したときの、『そうか。わかった。』の声がすごく悲しそうだったのを覚えている。

部活をやめてからは一緒に下宿している先輩とわるさばかりしていた。

しかし、楽しかった。夏には小学校のプールに真夜中にいって遊んだり、夜になったら酒飲んで酔っ払ったり、一人暮らしサイコーって思っていた。

彼女もいて、彼女の親御さんにもよくしてもらったことを覚えている。そういえばマラソン大会の前の日に彼女の家にこっそり泊まって、見つかって怒られた。

ただ顔だけしか見えてなかったらしくて、あの女の子はだれだ?って聞かれたらしい。

そして、とうとうやってきた受験。

もうご察しの通り、勉強なんて一切やっていない。しかし、さすが進学校。高校偏差値30くらいでも全国偏差値50越え。

特に何になりたいわけでもなく、祖父が今の私の職業を教えてくれた。診療放射線技師だ。

そして、専門学校にいった。東京だ。

スロットにはまりまくって専門時代

高校出たての鼻垂れ小僧が、大都会東京に来た。やることは大体決まっているだろう。遊びちらかすのだ。

私の場合はスロットだった。AT機全盛期だったが、俺はストック機を打っていた。しかしこのとき私は自分の新たな才能に気づいた。

スロットが強かったのだ。期待値計算し期待値を見込めるとこだけで打つ。1日2万かったら、頃合いをみて帰る。このルールで勝っていた。

その結果、学生で豪遊していた。なんせ勝ち額すべて小遣いだ。当時流行で私が好きだったナンバーナイン、アンダーカバーの服を買いあさった。

飯は初台で叙々苑によくいってた。そして留年した。当たり前だった。学校にはいってなかったからだ。

辞めると親にいったが許してもらえなかった。

しかし、ここからは順調に進級していった。もちろんスロットはやめていない。そして国家試験も受かり無事卒業。

社会人

福岡に来た。親のたっての希望だ。友達もいるし、全然悪い気もしなかった。

働き始めてからは、特に何事もなく32歳の時に子供ができて結婚した。いわゆる、できちゃった結婚だ。

ここからが私の本当のストーリーだ。息子ができて、本当に可愛かった。子供のためになんでもできる限りのことをした。

仕事から帰って来たら息子を風呂にいれご飯を食べさせ、夜寝なかったら一緒に深夜まで遊んだ。休みの日には、朝だけでも嫁にゆっくりしてもらおうと思って、お散歩に行った。

しかし、嫁とは対立した。ことあるごとに喧嘩になった。価値観の問題である。

そんなある日、母から嫁と息子いなくなったと電話があった。連れ逃げである。ちなみにこの頃、第三者(弁護士)をいれて話し合うことにしていた。

その最中の出来事。私は頭が真っ白になった。そしてなんとも言えない感情があふれた。職場からぶっ飛ばして自宅に帰った。

ここから司法との戦いがはじまった。論点は、どちらが主に子供の世話をしていたのか。しかし、はっきり言ってその論点は結局関係なくなる。

2年間裁判をした結果、司法の判断はこうだ。主だって世話をしていたのはどちらとも言えないが、今は嫁と暮らしているからそのままでいいのではないか。終わり。

愕然としました。つれ逃げ得じゃないか。お金も時間も精神も2年間すり減らしてやってきたのにこれですか。日本の司法終わってる。日本も早く共同親権にしてくれよ。

自暴自棄になった。飲酒しかしなかった。そして、寝た。酔い潰れるまで眠れなかった。

ある日、突然息子の声がした。夢の中だった。ずっと夢の中にいたいと思った。夢の中ならずっと一緒にいれるから・・・。

そして半年が過ぎ、すぐ1年が経った。だいぶ落ち着いて現実がみえてきた。息子は、どうなったとしても私の血のつながった子供だ。

あいつにだけは、不自由させたくない。副業をやるんだ!

しかし、バイトや副業のことを調べても出来そうなことがない。現金も弁護士費用などでほとんど持っていなかった。

副業条件

・少額から出来ること
・職場でもどこでも隙間時間にも出来ること

これで調べた。まず思い浮かんだのがFXである。

これを1年ほどやっていた。結果は年利で2~3%の勝ちだった。しかし、時間の制約と精神的な消耗に利益が見合わなかった。

毎日の勝ち負けにどうしても一喜一憂してしまい、精神的につらいのである。

実はこのとき同時にブログもやっていた。しかし、このときのブログはメモ的なものでアフィリエイトなんてことは考えていなかった。

FXの結果報告とFX勉強みたいなブログだ。一応アドセンスまでとったが、うまくいかずにFXより先にブログはやめてしまった。

ここで考え直した。精神的にストレスを感じるものはやめよう。私は目先のものを目指してるんじゃない。そして新副業条件を考えた。

新副業条件

・少額から出来ること
・職場でもどこでも隙間時間にも出来ること
・精神的にストレスがかからないものにしよう
・将来的に資産になるものにしよう

ここでブログアフィリエイトに決めた。というか、この4つの条件を満たすものが調べた限りこれしかなかった。

最後に

最後まで読んでくれた方、ありがとうございます。

皆さんいろんな事情で副業に取り組んでると思いますが、自分のためと言うよりも大切な誰かのために頑張ってる方が多いはず。

私は息子のためです。この気持ちを風化させることなく、持ち続けていきたいです。

どんな逆境にも打ち勝てる精神力、これをブログをとおして養っていく。

そして将来、息子にこのブログをお披露目したいですね。

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